平日21時・土日20時まで診療

JR上野駅 広小路口より 徒歩5分
東京メトロ日比谷線 上野駅 3番出口 徒歩1分
東京メトロ銀座線 上野駅 3番出口 徒歩1分
京成線 上野駅より 徒歩7分

創業ストーリー

よしひろウィメンズクリニック誕生までの命の物語

よしひろ夫妻のもとに一卵性の双子の女の子が誕生した。長女 瑛南(えな)、次女 玲南(れな)。妊娠22週2日、500gに満たない体重だった。瑛南は3日、玲南は76日頑張って生きた後、天国に旅立った。これはよしひろ夫妻の壮絶な妊娠・出産、そしてよしひろウィメンズクリニック創業の物語である。

双子の命を守るための壮絶な出産と別れ

(妻)

2011年5月、妊娠が判明した。とても強く妊娠を望んでいたため、妊娠検査薬を見て嬉し涙を流した。なぜなら、母が余命1ヶ月と宣告されていたためだ。当時、私は25歳、夫は26歳で、結婚当初は医師である夫の研修期間が終わってから子供を考えようと2人で話していた。しかし状況は変わり、私の母が闘病中であり、厳しい状況だと分かり、母にどうにか最後に孫の顔を見せたいと考えるようになった。そのような中での妊娠は、とても嬉しかった。

妊娠をしたことを母に伝えると、とても喜んでくれ、さらに私の体の心配をしてくれた。悪阻が始まり、思うように生活できなくなり、入院した。さらに出血がひどく、今にも流産してしまいそうだったため、尿のカテーテルを挿入して絶対安静となった。母は、毎日、入院中の私に電話をかけて励ましてくれた。毎日、「お母さん、早く病気を治して、手伝いに行くからね!大丈夫だからね!」と励ましてくれた。この時の母は既に自立歩行も難しい状態だった。今考えると、母は私よりも絶対に辛い状況だったと思う。

しかし、母との別れは突然だった。亡くなる2日前に、「体調が悪く病院にいるが、入院になるかもしれない」と苦しそうな様子で母から電話があった。その後、母から連絡が来ることはなかった。2011年6月30日、母は永眠。絶対安静で入院中だったため、私は母を看取ることも葬儀に参列することもできなかった。

2011年9月30日、ハイリスク分娩室で長女の瑛南(えな)、次女の玲南(れな)を出産。帝王切開の予定だったが、子供の生存が厳しいため、母体を優先して自然分娩となった。激しい痛みを感じながら、長女と次女を出産した。もちろん産声はなく、多くの医師に見守られながらの出産だった。二人には、すぐに新生児科の医師による蘇生が始まり、NICUに連れて行かれた。次女が連れて行かれる時、小さな手に触れることができた。

私の顔は、普通のお産での嬉し涙とは異なり、不安や会えたことの喜び、出産の3ヶ月前に亡くなった母への感謝など、様々な感情が入り混じり、嗚咽を上げて大泣きしたせいで、顔は涙でぐちゃぐちゃだった。出産をサポートしてくださった助産師さん達も泣いていた。

妊娠20週で緊急受診した時、医師から「あなたはまだ若い。日本の救命対象は22週からです。たとえその週数を超えたとしても、赤ちゃんが生存するのは非常に厳しい。早産による重度の障害も考えてください。あなたの子は双子ですから、単胎よりも厳しい状況です。中絶も視野に入れて考えてもいいと思います」と言われた。しかし、私の答えは「子供の命を優先します。よろしくお願いします」と悩むことなく即答した。

そんな中、2人とも生きて生まれてきてくれた。私と夫にとってのかけがえのない宝物だった。長女の瑛南は生後3日、次女の玲南は、生後3ヶ月になろうという時に容態が急変して亡くなった。次女は、頭部1回、腹部2回の計3回手術を受けた。娘たちは、入院中に何度も蘇生された。次女の手術後、私はバスで帰宅途中に病院から緊急手術の連絡を受け、タクシーに乗り換えて戻ることもあった。私は家に帰っても、いつ病院から電話が来るか分からないという緊張感で、ゆっくり休むことはできなかった。

母の死と娘たちとの別れ、夫婦の新たな決意

娘2人を失った後、私は毎日病院に通い詰めていた日常が突然消え、引きこもりになった。誰にも会いたくないし、話もしたくない。食べられないし、眠れない。私は、この半年で我が子2人と大切な母をなぜ失わなければならなかったのか、その答えを永遠に探し続けた。最終的に行き着いた答えは「そうだ、私もいなくなろう」だった。一度はすべてを終わらせようと思った。

ただ、私は、母と娘たちが生きたかった命を今生きている。この心の葛藤に向き合うため、精神科に通院した。自分の心が異常な状態であり、それを自覚しているうちに治療しなければならないと思ったからだ。最初は頻繁に通い、薬物治療も受けた。だんだんと通院回数が減ると、生きていきたいという気持ちになり、また我が子を抱きたいと思えるようになった。

そこには、絶対に産婦人科医にはならないと言っていた夫が、「俺、産婦人科医になる」と決断したことが大きかった。夫は、私の母が婦人科疾患で亡くなったことや、私の妊娠・出産が大変だったことを目の当たりにし、自分たちの経験が同じように苦しむ患者やその家族を助け、真に寄り添えるのではないかと感じたようだ。

そして、次の妊娠に向けて準備が整った。しかし、また何かあったらどうしようという不安が常に私の心には付きまとった。長女と次女の妊娠はスムーズだったが、三女の妊娠には時間がかかった。もともと多嚢胞性卵巣であり、排卵誘発が必要かもしれないと言われていたが、長女と次女の妊娠時には治療は必要なく、スムーズに妊娠できた。しかし、三女の妊娠ではなかなか妊娠できず、不妊治療を始めた。

毎月、注射と薬を服用し、病院にかかる日は、待ち時間、お会計、診察と平均3時間は病院にいた。待ち時間や治療の痛み、妊娠できない焦りで、私の心は疲弊していた。「本当は今頃お母さんだったのに」と自分を責め、さらに妊娠しても、流産してしまい自分で自分を追い詰める日々は続いた。

ようやく妊娠したものの、妊娠初期から重症の悪阻で入院し、切迫流産の状態で長期管理入院となった。双子の妊娠時のことがフラッシュバックし、妊娠22週を超えるまでは長い不安な日々を過ごした。22週を超えたら、次の目標週数まで病院で過ごし、心の不安定な状態は続いた。

夫は仕事の合間を縫って、来られる日は面会終了時間の2、3分前でも病院に来て、いつも励ましてくれた。そして、何よりも入院中にサポートしてくれたのは、先生方、看護師さん、事務の方であった。先生は時間があると『赤ちゃん見てみようか』と言って、夜でもエコーで元気な赤ちゃんの姿を見せてくれた。看護師さんは、心が辛くなった時、いつでも優しく話を聞いてくれて、常に寄り添ってくださっているのを感じ、本当にありがたかった。事務さんは、事務的な手続きの時に病室で、いつもあたたかい言葉をかけてくれた。私は、多くの方々の温かさと寄り添いによって、無事に三女を出産することができた。

たくさんたくさん泣いたけれど、そのおかげで、私は人の痛みをより敏感に感じ取ることができ、他者の立場に立って物事を考え、話すことができるようになったと思う。私たち夫婦は、妊娠や出産が必ずしも思い通りにいかないことを経験したからこそ、その実体験を活かし、寄り添いの心で人を助けたいと思っている。

不育症と不妊治療に待つ産婦人科医への道(夫・善啓)

妻は妊娠20週で緊急入院した。このままでは、日本の救命対象である22週を超える前に流産してしまうと感じ、どうにかして22週を超えさせ、救命する方法がないかと思った。当時、私は研修医で産婦人科の専門知識はなかったが、何かできる手立てはないかと海外の論文を調べ尽くし、ある薬が早産を遅らせる可能性があることを突き止めた。その薬は日本では保険適用外だったが、担当医に論文を見せ、自費で構わないので使用をお願いした。そして、先生の承諾を得て、薬の使用が許可された。その効果があったかは分からないが、ぎりぎりで妊娠22週を超えることができた。

2011年9月30日、22週2日で長女瑛南、次女玲南が誕生。しかし、生まれた瞬間から人工呼吸器につながれ、何度も蘇生された。2人は本当に頑張って何度も困難を乗り越えたが、この努力の甲斐なく、帰らぬ命になってしまった。妻と私は一生分泣いた。我が子の死を看取ることほど悲しく、悔しいことはない。

当時、私は研修医2年目を終えようとしており、4月には専門を決める時期だった。それまでは私の父が消化器内科医だったことや手先の器用さから、消化器内科を漠然と考えていた。しかし、妻が妊娠20週で入院し、どうにかして数日でも出産を遅らせなければならないと真剣に考え、妻に寄り添い行動したことで、私は産婦人科になることが自然な選択だと感じた。亡くなった娘2人に「当然、産婦人科だよね」と両手を引っ張られているような感覚さえあった。同じ年に妻の母も婦人科疾患で亡くなり、私の力ではどうすることもできなかった悔しさもあって、産婦人科医を目指す決断をした。

妻が妊娠22週で出産に至った原因を探るため、不育症の権威である杉ウイメンズクリニックの杉俊隆先生に診てもらうことにした。妻が「夫が産婦人科医を考えています」と伝えると、杉先生はこれまで書いた英語論文を集め、「これを読みなさい」と私に教材としてどっさり、渡した。私には、臨床で患者さんを診るだけでなく、後世のために研究を行い、論文を書きたいという思いが込み上げた。そのため、研究面でも超一流である杉先生の下で、1対1で学ばせてもらうこととなった。

その後、私は研究アイディアを出すようになり、論文も執筆し、世界初の不育症・着床障害の検査開発にも携わった。産婦人科医として臨床経験を積んだ後、不妊治療を専門に学ぶことを決めた。当時(今でもある程度そうだが)、不育症と不妊症は分断されており、不育症の専門医は不妊症のことをよく知らず、不妊症の専門医も不育症のことをよく理解していない、という状況が医療の世界では当たり前だった。

私は不育症の権威である杉先生の下で研鑽を積み、不育症の専門家になりたいと思った。そして、杉先生の下で私が不妊症の専門家になれば、不育症と不妊症の両方を専門とする、日本でも稀有な存在となり、これまで分断されていた不育症と不妊症をつなげられるのではないかと考えた。実際に杉先生の下には、不育症の患者さんだけでなく不妊症・着床障害の患者さんも沢山来ていて、研究を通じて、似たような異常が見つかることも分かっていたため、それは非常に価値のある経験だと感じ、不妊治療を専門として学ぶことにした。

心に寄り添う。よしひろウィメンズクリニックの使命

妻も双子を亡くし、その後、心と体を整えて妊娠を望んだものの、今度はなかなか妊娠できず、ようやく妊娠しても流産することもあった。私は身近で不妊治療の大変さ、流産の悲しみを知り、心から妊娠を望む方や流産に悲しむ方に、より寄り添い、力になりたいと強く感じた。

実際に患者さんと接する中で、私は不妊治療は通院回数が多く、治療が長引くこともあるため、非常にストレスがかかるものだと実感した。仕事をしながら通院する患者さんが多い一方、不妊治療専門クリニックの多くは夕方には診療を終了していたため、仕事に支障をきたすことは避けられず、患者さんのストレスは増すばかりである現実を知った。

そして、私は専門を学ぶ過程で、より良い治療法について考えるようになり、治療成績を高めつつ、仕事をしながらでも通いやすいクリニックを作りたいと考えるようになった。そして、2019年5月に、よしひろウィメンズクリニックを開業し、夜9時まで診療し、土日も診療を行うようにした。

治療成績が高ければ、妊娠までの期間が短くなり、患者さんにとって非常に有益である。そのため、日々治療に磨きをかけ、患者さんがより気持ちよく通えるように、営業時間だけでなく、待ち時間の短縮やシステムの改善にも取り組んでいる。そして、スタッフの優しさが患者さんを癒すクリニックを目指していく。

エピローグ

よしひろウィメンズクリニックの物語は、全て双子として生まれた瑛南と玲南の妊娠・出産から始まっている。私は、生命が宿る喜びを知り、同時にそれを失う悲しみも経験した。もし2人が存在しなければ、私は産婦人科医になっていなかっただろうし、このクリニックが誕生することもなかっただろう。2人は短い生涯だったが、その代わりに、このクリニックが多くの人を救う素晴らしい存在となり、彼女たちの分も生き続けて欲しいと願っている。

診療受付時間
休診:金曜(祝祭日も曜日での診療時間になります)
 
12:00~15:00
17:00~21:00
11:00~15:00
17:00~20:00
診療内容
不妊治療・体外受精専門
住所
東京都台東区東上野2-18-6 ときわビル2F
アクセス
JR上野駅 広小路口より 徒歩5分
東京メトロ日比谷線 上野駅 3番出口 徒歩1分
東京メトロ銀座線 上野駅 3番出口 徒歩1分
京成線 上野駅より 徒歩7分
クレジットカード
使用可能
VISA, mastercard, JCB, AMEX, DC, DISCOVER, J-Debit
Home